こんばんは、ゆめのです。
うーんやっぱり発信ってすごく難しくてやりがいがありますね。
うーんって言っているのにやりがいがあるとは!ですね。
いきなりですが、ちょっと私の頭の中を覗いてみてもらおうと思って。
思考が基本溢れているのでメモが大変です。
たまたま今日のYouTubeで教育について話したんですがやや近いので。
飛び出した人を削ぎ落とし、抜け落ちた人を放置する
みんなと一緒が1番だからと育てる家族。
あなたらしく、人を大切に生きなさい、あなたはあなとこっそり育ててくれたおばあちゃん。
今思うとこの絶妙なバランスが良かったのだと思います。
親よりもおばあちゃんよりも先に人生終わるかもしれない、これを決してマイナスに変えなかった。
後悔無く生きようと、寝る間も惜しんでいた。
その惜しんだ寝る前のおかげで後に大変なことになるもその恐怖では人生投げませんでした。
私の場合は統合失調症等の影響が出た時はやはり投げていましたが。
小さい頃よく飛び出している人を削ぎ落としている大人を見ていました。
大変そうだと。
そして抜け落ちた人は放置、頭を?でいっぱいにしていました。
同じ所に戻すだけなのに何で?と。
そして授業中ずっと寝ている子達は怒られないのに先走り過ぎた質問をすると怒られていました。
無駄な仕事を増やすなと。
くだらないことを聞くなと。
でも連絡ノートには何にも書かない。
そんな大人と私の家族は明らかに違いました。
私を守るために悪く目立つとは?について教えてくれた親には感謝です。
おかげで見事にグレませんでした。
悪いことも手を出すことはありませんでした。
しかしながら、大切な「欲」が生まれにくかったことも確かです。
恋愛が理解できず、性欲もわかりませんでした。
初恋がいつかを話していて1人で赤ちゃんの頃の検診にいた男の子だと言ってドン引きされました。
そんな時のこと覚えてないでしょ?と嘘つきさん認定。
ただ、義務教育の中でどんどん「私」が削られていたかと言えばそうでも無くて。
出さなければいいのね〜と思っていたのでフラストレーション等も沸きませんでした。
よく「我慢」していた過去が精神疾患を引き起こすと精神科等でお話に出てきます。
しかしながら、今、私の中で「我慢」は当たり前でそこは原因では無いと思います。
私の思考の中では「我慢」ではなく常に「真ん中」でいれば安心なんだという認識でした。
話す前のイメージは真面目で大人しそうで口数少なそう……現実はほぼ真逆です。
でもきっとそのイメージは私の中で作り上げてきた「真ん中」なのかもしれません。
「真ん中」から徐々に仲良くなると「私」を出すことが安全、これも私の1つの生きる術です。
生きる術
私は今生きていることも、障害者雇用として大多数の中で障害者らしくしないでいれたこともこの「生きる術」があるからだと思っています。
そして時に相手のメンタルを揺るがすメンタルの強さも同じく「生きる術」があるからだと思います。
お話をすると……
ゆめのさんと話すとゆらゆらしてたメンタルが何か落ち着くんです。
ゆめのさんはメンタルの次元が何か違う気がします。
ゆめのさんってコントロールしようする感じ全く無いので今何か不思議です。
たいてい「何か」と言われます。
この「何か」が私の大切にしている所です。
この先ずっと関わるかもしれない、でももう関わらないかもしれない。
その方の人生に「私」はずっと永遠にいなくてもいいんです。
「私」の人生でその方はずっと存在しますがその方の人生をこの先生きるのはその方です。
だから「何か」生きやすいなぁでいい。
その人の人生の「何か」という1欠片でいいんです。
こういうのはネットでの私とは真逆かもしれませんね。
ネットではこの反動か、わかっててやってますが私私〜です。
でもだからこそ楽しいんです。
そして今は「真ん中」で無くても生きていける。
飛び出しているまたは抜け落ちていることが「私」だと理解し、受け止めているからです。
未だ日本社会全体はは何だかんだ「真ん中」が良い良いです。
教育で見ると飛び出している人の中の1部はしっかりと学べます。
ほんの一部です。
私にはこのほんの一部に選ばれた子どもたちは幸せなのかな?と思います。
作り出されたイメージで、
・優秀(IQ130~)
・周りがこどもっぽく感じる
・勉強
ここでこの時予約時間来てやめたんですよね。
「何か」って適当とかって捉える方が多いのですがそれは結構良い傾向なんです。
相手に対する気持ちって「何か」という言葉にどういう思考が働くか?でわかるんです。
私は「何か」と言って欲しいけれど私は忘れたくない。
「何か」なんだ私って・・・と恋愛で思うときは相手が好きですよね。
「何か」って家族なのに私の欲しいもの覚えてないんだ・・・と家族にクリスマスなどに思うときは家族への信頼が消えていますよね。
「何か」という言葉一つでもどう捉えるか?どう使うか?どういう意味を持たせたいか?
私は自宅療養期間をもったいないことに寝たきり廃人でした。
最近自分のお仕事を少しずつオープンにしているのはここに少し関係があります。
今、自宅療養をされてる方の時間をもっともっと深く自分と見つめあってみてもらえたらなと思うんです。
もちろん現状レベルによります。
ただ私の約5年間は・・・もったいないです、今の私ではない違うよ〜と言いたいくらいでした。
でもそのくらいどん底でした、まさに。
でも仕方なかったんです、だってそうしておけって言われてたんだもの。
誰も楽しく自宅療養って言ってくれなかったんだもの。
そして障害者雇用に精神疾患は絶対に入らない時代でした。
まさに絶望でした、希望も愛犬と出会って部屋で怪我しないように足場を作ったけどすごいことになってました。
今思うと愛犬は私の心を動かしてくれたんです。
あ、バレてます?
はい、私はですね、当時の愛犬のような人間になりたいんです!(←犬?)
犬ってすごく賢いんです、特にシュナウザーは。
当時2匹いました、猫も。
しかしながら私の部屋に来たり心配してくれるんです。
普通は犬は先住犬につくんですが、というか1代目に2代目はくっついてまさに群れてました。
だからこそびっくりでした。
初日に夜私がベッドに上がったら「キューン」と言ったのを今も覚えています。
ずっと陸の孤島人生だったので嬉しくて泣いて愛犬と寝ました。
でもそこから数年はまだまだ愛犬の散歩行けるとすごい・・・グッタリでした。
メモ公開のはずが私が犬になりたい本音に。
でも人の心を動かす「何か」になりたいんです。
人生の1欠片が理想です。
記憶力は人によるので消えるかもしれません。
でもそのくらいの関係性がいい時もある。
これって記憶力って書いたんですが私は「脳の配慮」じゃないかな?って。
脳にとって記憶って「ただの記憶」です。
ただ私的に脳は愛されキャラなので、「配慮」して忘れてくれるんじゃないかな?って。
脳の疾患なのにどうして脳はいつも「恋愛」とか「ビジネス」に活用されるのかな?
私はそこがすごくもったいないなとずっと思っていて。
脳を休ませることはわかります、でもそれはお薬でできている方が多いんです。
じゃあゆるーくお休み中の愛されキャラの脳を覗いて見ることがあってもいいのでは?と。
これは私自身のみではなく検証というよりも日々「やっぱり」と思います。
脳をコントロールではなく、実際は脳と会話くらいの・・・意味不明ですよね。
またにしよう〜。
こちら公式サイトを見て下さりありがとうございます。
メモ晒しコーナーでした。